宝塚・東宝・住宅ローン・阪急の共通点を知っていますか?
上の4つは、ある1人の実業家が作ったものです。
日本の私鉄のビジネスモデルを作った男は、何を考えていたのか?
「小林一三」私鉄ビジネスを追い求めた男の経歴
(小林一三 Wikipediaより)
小林一三
阪急電鉄の創業者。
日本の私鉄事業のモデル「電車を走らせて、周辺に住宅街や娯楽施設を作る」という、現代のビジネスモデルを先駆けて作り上げた人物。
1873年
小林一三は、山梨県の生まれ。若い時から文学・芝居が好きな青年でした。
小林が執筆した小説「練絲痕(れんしこん)」が地元紙(山梨日日新聞)に連載されたりもしていました。
15歳の時に、福沢諭吉が運営する慶応義塾 (現・慶應義塾大学)へ入塾、19歳で卒業します。
執筆活動をしていた小林は、新聞社へ就職しようとしますが上手く行かず。最終的に、三井銀行(現・三井住友銀行)へ就職します。
こんな話も・・
就職当初は、仕事に身が入らずに1カ月くらい出社しなかったというのは有名な話です。
夜遊びも沢山しており、その時に出会った芸子(芸妓)の見習いの女性と結婚します。小林は既婚者でしたが芸子(芸妓)の見習いと再婚したのです。
小林は、銀行内で「奥さんを追い出して、愛人と再婚した奴」として扱われて、銀行を辞めようかと思ったそうですが、辞めずに続けていました。
まさかの失業、電鉄事業へ乗り出す
(小林一三 阪鶴鉄道の監査役だった頃 Wikipediaより)
失業へ
- 証券会社の支配人へ・・?
(小林の元上司である岩下清周(きよちか)・Wikipediaより)
ある時、北浜銀行(現・三菱UFJ銀行)を設立した元上司が「証券会社を設立するから支配人にならないか」と声をかけてきました。
1907年 小林はこの話に乗ることにして、三井銀行を退職した。
同じ時期に株式市場が荒れる
1907年 日露戦争の賠償金が回収できずに恐慌へ
日露戦争(1904年~1905年)で勝利した日本でしたが、賠償金は手に入りませんでした。その結果、財政が悪化して1907年に恐慌へ突入します。
ちなみに1907年は世界的に株価が下がっていた年です。アメリカでは「1907年恐慌」と呼ばれて信用危機に陥っています。ニューヨーク市が財政破綻する直前まで景気が悪化しました。
そんなタイミングで退職した小林は、この影響をもろに食らいます。
なんと、退職後に株式市場が暴落して証券会社で支配人になる話はなくなりました。
失業した小林に、ある話が舞い込んできます。
鉄道事業へ参画
- 鉄道事業の清算を任せられる
先ほどの元上司が、出資していた電鉄事業の清算を任せたいと小林に依頼してきました。
この時に清算されるはずだったのが阪急電鉄です。当初は「梅田-箕面(みのお)-有馬」を結ぶ電車を作る計画だったのですが、恐慌でダメになったのです。
運命を変える出来事
そんな時に息子の喘息(ぜんそく)が悪化します (当時の大阪は工業化が進み、空気が汚なかった)。
医者の勧めもあって、家族で「空気が綺麗な、大阪の郊外 (鉄道の建設予定地)」に行きます。この時に奥さんの幸(コウ)が言った言葉が、小林一三の運命を変えることになるのです。
こんなところに住むことが出来ればいいのに・・。
諸説ありますが、この言葉を聞いた小林は、あるアイディアを思いつきました。それが「電車の沿線沿いに家を作って売る」というものです。
日本初の住宅ローンを生み出す
(現在の箕面駅周辺・Wikipediaより)
電車を開通させようとしていた箕面(みのお)などは、何もない田舎風景が広がる土地でした。
普通に考えれば、こんなところに電車が走ったところで誰も使わないのは眼に見えていました。
小林は、妻の幸(コウ)が言った言葉に、住宅を売ることを思いつきます。
さらに詳しく
当時、梅田(大阪)は空気が汚くとても住むのに適した街ではありませんでした。そこで「郊外の空気な綺麗なところに住んで、梅田(大阪)に通勤したい人」がいるはずだと思ったのです。他の路線はラッシュも激しく、新しく開通すれば間違いなく需要があると考えました。
問題点
しかし、小林の考えには問題がありました。
「家を買えるほど、みんなお金を持ってない」
当時の日本の公務員の初任給は約50円
それに比べて、阪急電鉄で売り出そうとしていた家の値段は約2,000円~3,000円でした。もちろん、誰もこの値段では買ってくれないのです。
月賦払い
- 住宅ローンの誕生
月々の支払いを24円~25円程度にすれば、当時の大阪の家賃と同じです。
頭金として販売価格の2割、残りの金額を10年間で月々支払えば住宅の所有権を移転させることにした。
関係者
住宅を月賦払いにするなんて聞いたことがないぞ!
そもそも清算するはずの電鉄事業だったのに、小林が沿線に家を作って売り出すことに驚いた投資家も多かったのです。
しかも月賦(分割)払いで!という当時の常識からかけ離れた提案をしたので、大騒ぎになりました。
最終的に
投資家や関係者の賛同を得て「鉄道を開通させて、その沿線に住宅を作って売る」という現代の私鉄事業のモデルがスタートします。
「私鉄」と言われると、北海道の人は知らない人が居るかもしれません。本州では、電車を走らせている会社はJR以外にも沢山あります。例えば東急・小田急・西武・東武・阪急・東京メトロ・大阪メトロなど。基本的にJR・市営以外の電車会社を「私鉄」と呼んでいると思ってください。
ポイント
この時の電鉄事業を行っていた会社 (箕面有馬電気鉄道) の株式は、54,000株あり、10,000株しか買い手がいませんでした。
北浜銀行の元上司が、銀行側で残りの44,000株を引き受けてくれて財務面でも首の皮が繋がります。
1910年 電車開通と同じ時期に、売り出された200戸の家は無事完売
宝塚・百貨店の誕生
(宝塚歌劇団・Wikipediaより)
乗る人がいなくて赤字になるなら、乗る客を作り出せばよい。
それには沿線に人の集まる場所を作ればいいのだ。
電鉄事業で成功を収めたものの、通勤客がメインの鉄道事業は問題を抱えて居ました。
まず問題になっていたのが乗客の流れです。
ターミナルとなる梅田(大阪)以外での乗り降りが少ない。
開通した電車は通勤がメインだったため、梅田(大阪)以外の駅で降りることはありませんでした。そこで小林は、梅田(大阪)と逆方向にある駅にレジャー施設を作っていきます。
- 箕面(みのお)に動物園
- 宝塚に温泉施設
残念ながら動物園も温泉も失敗に終わります。
しかし
宝塚の温泉施設が失敗したのちに、小林が建物の中を眺めていると、あるアイディアを思いつきました。それが「舞台施設」にしてしまうというものです。
東京・三越で流行っていた「少年音楽隊」を思い浮かべた小林は、「少女だったらもっと受けが良いのでは?」と考えます。
その結果「宝塚少女歌劇」が誕生します。(現・宝塚歌劇団)
1914年の初公演は満員
小林は、青年時代から芝居や小説というものが好きでした。小林ならではのアイディアだった「宝塚少女歌劇」は、どんどん成長していきました。
「この劇をたくさんの人に見てもらいたい」と考えた小林は、宝塚大劇場をつくり事業として確立していくのです。
成功の裏で
1914年 「宝塚少女歌劇」の公演成功の傍らで、元上司の北浜銀行が倒産します (元上司の岩下も逮捕される)。
小林は借金をして銀行が持っていた株式を購入し、株主へ。会社の決定権を握っている小林は、鉄道事業をドンドン拡大させていきます。
世界初・電鉄会社が百貨店を経営?
(現在の阪急百貨店・Wikipediaより)
- 「宝塚少女歌劇」に力を入れる一方で、小林は百貨店事業にも手を付けていました
というのも「ターミナルとなる梅田(大阪)以外での乗り降りが少ない」という問題以外に、もう1つ問題があったからです。
通勤時間以外の利用者が少ない。
小林はアイディアを模索しようと、駅のホームで乗客の流れを見ていました。
その時に
百貨店で買い物をした女性が、荷物を抱えて電車に乗っていました。
この時に、小林が思いついたのが「駅に百貨店を作って、主婦がたくさん電車を使えるようにするのが良いかもしれない」というアイディアです。
このアイディアは、周りからの反応が悪かったのですが、小林は
「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」
「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」
と考えていたそうです。
その後、アイディアを実践するべく、1920年 梅田駅に世界初のターミナルを建設。
5階建ての建物で、1階に老舗の百貨店に出店してもらって、百貨店の経営ノウハウを学びます。2~3階には日用品を販売する店を入れました。
経験とノウハウを学んだ後、1929年に地上8階だての巨大百貨店をオープンします。
(阪急百貨店 雑誌広告・Wikipediaより)
この時にオープンしたのが「阪急百貨店」です。世界初の電鉄会社が百貨店を運営するデパートとなりました。
1929年は世界恐慌の年ですが、阪急百貨店は不景気の影響をもろともせずに成長していきます。
伝説のソーライス
阪急百貨店の最上階に食堂を作りました。食堂では、洋食がお手軽な値段で食べられるるため、とても人気になりました。
買い物を終わりに家族で食事をするという流れも生まれます。
そんな食堂では不景気の影響もあり、ライス(米)だけを注文してソースをかけて食べる客(主に学生)がたくさん現れます。
お店としては、ライス(米)だけでは利益にならないため、「ライスのみのお客様はお断り」という張り紙を出して拒否していました。
張り紙を見た小林は・・
「いまは貧しいけれど、いずれ家族や友人を連れて来てくれるだろう」と言って、ライスのみの注文でも快く受け入れるように、食堂側に指示をしました。
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小林一三のその後
(小林一三 銅像・Wikipediaより)
阪急の経営は順当に進む一方で、1930年代以降も積極的に事業を起こしていった。
「東宝」の設立
今では映画の配給会社として有名な東宝ですが、もとは小林が設立した会社です。
(東京宝塚劇場・Wikipediaより)
1932年に、宝塚の東京進出を目的として設立された「㈱東京宝塚劇場」を設立。その後、映画の制作会社であった東宝映画㈱を合併して、現在の東宝となりました。
更に、野球界にも影響を残しています。
1936年には、阪急職業野球団を設立。後の「阪急ブレーブス」で、その後オリックスバッファローズへ引き継がれます。
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渋沢栄一は2024年度発行の1万円札の肖像画になっている人物です。
1918年に渋沢が設立した田園都市㈱は、小林が日曜日に手伝っていたという話もあります。田園都市㈱は、後に「東急電鉄」になります。
1934年、阪急の社長を辞任して㈱東京電灯(現・東京電力)の社長に就任します。放漫経営に陥っていた㈱東京電燈の経営を立て直すのですが、この会社も渋沢栄一が設立したものです。
小林は、渋沢栄一が設立した会社の立て直しにも成功しているわけです。
最後に
小林一三は、人を楽しませるために事業を推進していた人物です、
よく私鉄のビジネスモデルを確立した人物として紹介されますが、個人的には娯楽産業を盛り上げた人物という印象が強いです。
いま小林が生きていたら、どんな娯楽施設を考えるのかが気になりますね!
自分の長所を磨くことを忘れて、当然のように常識の範囲内の行動をとる若い平凡人が多すぎて困る。
自分の持つ長所を確信することである。
確固たる思想を飽くまでも維持することである。
金がないから何もできなという人間は、金があっても何もできない人間である。