幕末の世に生まれた渋沢栄一
パリ万博の視察、訪れた欧州では「株式会社」という仕組みを知る
日本でこの仕組みを試すべく数々の企業の設立に関わった彼は「日本資本主義の父」となった
「渋沢栄一」日本経済の礎を作った男の経歴
(渋沢栄一 Wikipediaより)
渋沢栄一
日本の実業家。
徳川慶喜・静岡藩・明治政府(大蔵省)と勤めて、実業家への道を進んだ。
渋沢栄一が設立に携わった企業は500社以上あり、食品・電鉄・証券・銀行など業種は多種にわたる。
渋沢が設立に関わった企業をすべて並べれば、必ず知っている企業名があると言っていい。
ビジネスマンなら必ず知っておくべき「渋沢栄一」という人物が、どのような人生を歩んできたのかを見ていきます!
青年時代:徳川慶喜に仕える
(徳川慶喜 Wikipediaより)
1840年3月16日
渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に生まれる。
青年時代は、尊皇攘夷(そんのうじょうい)派の若者だった。
尊皇攘夷とは、天皇中心の政治を行うように、徳川将軍を退けようとする考えのこと。
時代背景
- 1840年 アヘン戦争
- 1853年 黒船(ペリー)来航
渋沢栄一が生まれた時代は、戦争に敗れた中国(清)が欧州列強に食い物にされている状態で、日本国内も緊張感が高まっていました。
渋沢が13歳の時には、黒船(ペリー)が来航するなど外国勢力の圧力が強まっていた時代に、徳川幕府は弱腰の対応しか取れずに、国内では幕府を倒す動きが盛んだったのです。
そんな時代背景もあり、渋沢栄一も打倒幕府を掲げる青年でした。
しかし
幕府を倒そうとする渋沢は、役人に捕まりそうになります。
そこに、徳川慶喜の要人であった平岡に「徳川慶喜(まだ将軍ではない)に仕えれば助かるだろう」と持ち掛けられました。
「幕府の内部から変えてやろう」という野望も抱き、渋沢は、徳川慶喜に仕えることになったのです。
ちなみに、渋沢栄一は、幕末の志士たちとの交流もあります。
- 西郷隆盛
- 近藤勇
- 土方歳三
渋沢・株式会社を知る
- フランス・パリ万博へ
1866年、徳川慶喜が第15代征夷大将軍になるというハプニング※もあり、仕事を辞めうと考えていた渋沢栄一ですが、仕事ぶりが評価され、運命を変える旅に参加することになります。
※「幕府を倒そうとしていたのに、自分が仕える人が幕府のトップになってしまった」という意味で、渋沢栄一にとってはハプニングだった。
1867年
徳川慶喜の弟・昭武と一緒にフランス・パリ万国博覧会への参加を命じられます。
経理業務を任されていた渋沢は、フランス・パリの銀行家から「株式会社」という仕組みを教えてもらいます。
ココがポイント
たくさんの人から資金を集めて会社を運営する。利益が出れば出資してくれた人に利益を還元する、という仕組みに渋沢栄一は感銘しました。
多くの人から資金を集めれば規模の大きな事業を起こせる。そして、出資した人も豊かになれる、まさにウィンウィンの仕組みだと考えたのです。
ためしに買ってみる
渋沢は株式ではありませんが、ためしにフランス公債を購入しました。
帰国直前に換金すると、購入した時よりも高い金額が戻ってきて、渋沢は驚いたと言われています。
旅の途中で大政奉還
1867年、ヨーロッパ視察の途中で徳川幕府が終わりを告げたことを知ります。
急遽帰国する事になりましたが、帰国後は静岡藩で経理の仕事をした後に、日本初の株式会社を設立します。
日本初の株式会社
1869年(明治2年1月) 渋沢栄一は「商法会所」という会社を静岡に作ります。
藩から出たお金や、個人からの資金を集めて会社の運営をしました。事業の内容はこんな感じです。
- お金の貸し借り
- 米・肥料の売買
- 製茶・養蚕などの事業への出資
官僚時代:大蔵省に勤務
(大隈重信 Wikipediaより)
日本初の株式会社を設立して直(す)ぐのこと。
当時の大蔵省の次官(大蔵大輔)だった大隈重信から「大蔵省(現・財務省)に入省して、国のために働いてほしい」という説得を受けます。
当初、渋沢は税金に詳しくないという理由で断っていました。
大隈からは「日本のために仕事が出来る渋沢さんを日本が欲しがっている。慶喜公も喜んでくれるのでは?」という熱心な説得もあり、大蔵省に入省します。
現・世界遺産の設立へ
- 富岡製糸場の設立に携わる
渋沢が大蔵省時代に担当した仕事のうち「富岡製糸場」の建設は今でも有名です。
さらに詳しく
明治政府は、国として製糸事業に力を入れようとしていました。渋沢は農家出身で蚕種(さんしゅ)・養蚕(ようさん)にも詳しく、率先して建設に向けた準備を進めました。その結果、群馬県に建設が決まったのが「富岡製糸場」なのです。
渋沢は、大隈重信・伊藤博文など共に、富岡製糸場の建設に動き出しました。
渋沢は、富岡製糸場建設プロジェクトの主任に任命されています。
その後、1872年(明治5年)に完成した富岡製糸場は世界遺産にもなっています。
2014年(平成26年)、世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」として登録される。
渋沢が大蔵省時代に携わった仕事は他にもあります。
- 国立銀行条例
- 国家予算案の作成
- 国立印刷局の初代紙幣頭(理事長)
逸話
大蔵省時代、渋沢が日本経済のために奔走していたことが分かる有名な話があります。
廃藩置県(藩を廃止して現在の”○○県”を設置)するときに、西郷隆盛がこれまであった補助金制度(興国安民法) が廃止になるのを何とかしてほしいと、渋沢栄一に頼みに来ました。
※西郷隆盛は、相馬藩の財政が苦しくなることを心配していた。
その時に、渋沢栄一はこう答えています。
渋沢の回答
今は、日本のために必要な新しい補助金制度を考える方が、相馬藩のために昔の補助金制度(興国安民法)をどうするかを考えるよりも先決ではありませんか。
西郷参議は、日本という国全体を考える立場にありながら、日本の一部分でしかない相馬藩だけのために補助金制度 (興国安民法)の維持に努力するのはおかしいです。
日本全体の新しい制度についてどうするのかというお考えがないのは、よくわかりません。本末転倒なのではないでしょうか。
渋沢栄一は、欧州各国に遅れないように、日本経済が強く発展することを常に考えていました。そんな渋沢の信念が分かるエピソードだと、私は考えています。
ちなみに、西郷隆盛も渋沢栄一も、お互いに認め合っていた仲です。
大久保利通との対立
- 渋沢、大蔵省を去る
大久保利通が大蔵大臣(大蔵卿)の頃、渋沢は大蔵省の局長となっていました。
あるとき「富国強兵」を唱えていた大久保から、多額の軍事費を盛り込んだ予算案を見せられた時に、渋沢はその予算案を批判します。
「歳入が不安定なのに、軍事費が拡大している」という批判でしたが、大久保利通はこれを無視した。
明治政府は、薩摩藩・長州藩の人間が実権を握っており、渋沢の出る幕がなかったのです。
そんな状況に嫌気がさした渋沢は、1873年に大蔵省を去ることになりました。
実業家へ:日本の資本主義の礎を築く
(2024年度発行 1万円札 Wikipediaより)
大蔵省を去った渋沢栄一は、日本の民間事業を育てることに専念します。
当時、政府の役人を辞めて、民間の商業者になるというのは理解されないもの(官尊民卑)でしたが、渋沢は自身の信念を貫きました。その過程で賛同してくれる人もたくさん出てきました。
ご忠告はありがたいが、いささか信ずるところもありますから、思ったとおりにします。
渋沢に能力があると認めてくださる事は感謝にたえませんが、もし能力があるとすればなおさら、官界を去る必要があります。
もし人材がみな官界に集まり、才能のない者ばかりが民業にたずさわるとしたら、どうして一国の健全な発達が望めましょう。
実をいうと、官吏は凡人でも勤まるが、商工業者はそうとう才腕のある者でないと務まりません。
しかし、今日の商工業者には実力のある者が少ない。
これは士農工商という思想のなごりで、政府の役人となる事は光栄と思うが、商工業者たる事に恥を感ずる、この誤った考えを一掃する事が必要です。
なによりもまず商工業者の実力を養い、その地位と品位を高める事が急務であると考えます。
民間に品位のある、よく知りよく行なう業者が表われ、経営の任にあたるようにならなければいけません。
こんな意味で官を辞したのですから、どうぞ私のこころざしを通させてください。
(「渋沢栄一ものがたり: 6.実業界に乗り出す」http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki4/sibusawa.htm#6 より)
実業家としての1歩
大蔵省時代に渋沢が設立した第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任したのを皮切りに、実業家として活動を広げていきます。
東京に電気・ガス・水道を整備する
渋沢がフランス・パリ万博へ行った際に、フランスの街頭設備に感銘を受けていました。当時のフランスは、水道・ガスなどのインフラ設備が世界トップクラスです。
そんな思いがあり、東京にインフラ設備を敷こうと奮闘します。その結果設立したのが
- 東京ガス株式会社(現・東京ガス)
- 東京電灯株式会社(現・東京電力の源流)
- 東京水道株式会社(のちに市営化)
渋沢が関わった会社の例
- 東京株式取引所(現・東京証券取引所)
- 東京海上保険㈱(現・東京海上火災保険)
- 札幌麦酒㈱(現・サッポロビール)
- 大日本麦酒㈱(現・アサヒビール)
- ジャパン・ブリュワリー CO,.Ltd 株主(現・キリンビール)
- 王子製紙㈱ (現・王子製紙㈱)
- 日本鉄道会社(理事)&その他8社(発起人・株主等)(現・JR東日本)
- 田園都市㈱(現・東急電鉄)
- ㈱帝国ホテル(現・㈱帝国ホテル)
- 東京商法会議所(現・東京商工会議所)
- 商法講習所への援助(現・一橋大学)
上の例は、設立に直接関与したり、直接発起人になったり、株主になったりしていたものです。
渋沢栄一が、どれほど凄い人物だったのかが簡単に分かりますね!
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渋沢の実業家哲学「道徳経済合一説」
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。
正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。
渋沢栄一の哲学に「道徳経済合一説」というのがあります。
道徳経済合一説
経済活動では、道徳(倫理)も利益追求のどちらも欠けてはいけないという考え。
1916年、渋沢は『論語と算盤 (角川ソフィア文庫)』を著し、「道徳と経済は一体である (道徳経済合一説)」ことを説いた。
例えば
公益(道徳)のために何かをしようとしても、利益にならないと積極的にやりたいとは思われません。しかし、自分の利益にもつながるならやる価値がとても高くになります。
逆に、利益追求だけに執着すると、周りからの信用を失い、永続的なビジネスにならなくなります。それを自制するものは道徳観(倫理観)です。
つまり、道徳と経済は表裏一体でどちらも必要なのです。
金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。
しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。
金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。
日本版のノブレス・オブリージュ
渋沢は、経済性・倫理のどちらも大事にしていました。そのため、自分自身にも富を社会全体に還元することを心掛けていたそうです。
ノブレス・オブリージュは「高貴さは(義務を)強制する」という意味のフランス語。特権階級・裕福な人は、率先して何かをしたり、富を還元したりする義務を負うものだ、という道徳観と言える。
渋沢の経営哲学
- 商才とは?
渋沢は、道徳的ではない利益だけを出すような手立ては、真の商才ではないと考えています。
渋沢が事業を始めるときの4つの基準
- 道理が正しいか
- 時運に適しているか(その時代に合っているか)
- 人の和を得ているかどうか
- 己(おのれ)の分にふさわしいか
渋沢栄一の経営哲学は「道理にかなって公益に繋がれば、周り回って自分のためにもなる」というもの。
一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。
その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。
このような渋沢の道徳観の高さをピーター・ドラッカーも評価していました。
経営の「社会的責任」を論じた歴史的人物の中で、明治の世を築いた偉大な人物の1人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。
彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は「責任」だということを見抜いていた。
ピーター・ドラッカーは、近代経営学の父で「マネジメント」という言葉を生み出したことで有名。
慈善活動も積極的
1923年 関東大震災のときには、渋沢は復興に向けて尽力。
1931年 中国で起こった水害のために義援金を募る。
当時のアメリカでは日本人差別が強まっていました。
そんな中で、日米関係の悪化を気にしていた渋沢は、日本国際児童親善会を設立して「アメリカの人形(青い目の人形)」と「日本人形(市松人形)」を交換するプロジェクトを仲介した。
(青い人形を手に取る渋沢栄一・写真はWikipediaより)
ポイント
政府の力を借りずに、民間で外交的な活動をしていた先駆者でもあった渋沢は、1926年・1927年にノーベル平和賞の受賞候補にもなりました。
タイムマシン経営
- 欧州にあって日本にないものを
渋沢が事業の展開をするときに、ヨーロッパでは普及していて、日本では普及していないものが多いです。
- ガス・水道
- ビール
- 鉄道
- 保険
このように、海外で成功している事業やサービスを日本に持ち込むことを「タイムマシン経営」と呼んでいます。(ソフトバンクの孫正義が提唱)
アメリカで成功したWebサービス・ビジネスモデルを日本国内で展開して、大きな利益を得る経営手法。近年では、中国などで成功したものを日本に持ち込むというパターンもある。
渋沢栄一は、単に倫理観が高いだけではなく、ビジネスを見る目を兼ね備えていたことが分かるかと思います。元祖タイムマシン経営と言っても過言ではありません。
経理の経験がある渋沢は、事業を数字で見ることも出来る人物です
渋沢の数字を見る力と、海外にも目を向ける視野の広さが強みとなっていたのかもしれませんね。
数字算出の確固たる見通しと、裏づけのない事業は必ず失敗する。(渋沢栄一)
最後に・・
個人的に渋沢栄一がお札になることに違和感がなく、むしろ今まで何故ならなかったのか!という思いの方が強いです。
お札の肖像画から、近代日本の経済の礎を築いた「渋沢栄一」がもっと多くの人に知られると言いなと思っています!
我が人生は、実業に在り。(渋沢栄一)