1965年、任天堂に理系の新卒が入社した。
花札を製造していた任天堂を、世界的な企業にした立役者でもある。
彼の名前は「横井軍平」
横井軍平の生涯
横井軍平(よこい・ぐんぺい)
横井軍平は、ウルトラハンドなどの玩具、ゲームボーイなどのゲーム作りに携わった人物。彼のモノづくりの考え方などは今でも語り継がれており、クリエイターの中では特別な存在となっている。
横井軍平は、1965年 同志社大学 電子工学科を卒業した。
当初は・・
任天堂の事業は、花札・トランプの製造がメインだったため、横井の仕事はなかった。
ある時、花札を作るためのノリの撹拌機(かくはんき)に不調があったため、図面を引いて修理した。他には電気設備の保守点検などをしており、その才能を開花させるのは先のことだった。
そんな中で、横井は上司の目を盗んでオモチャづくりを始めた。
作ったオモチャを同僚に見せびらかせていると、社長の山内の目に入り、商品化をするように指示が出された。
山内社長は、横井軍平のほかに、マリオの生み出した宮本茂、後の社長としてDS・Wiiを送り出した岩田聡など、多くの人材を発掘した名経営者です。
こうして1967年に発売された「ウルトラハンド」はヒット作となった。
(「レトロゲームズ」http://sa2hara.com/?p=9337 より)
横井軍平は、ウルトラハンドのヒットで社長の山内直属の開発部署へ移動となる。
新設された開発部署
この開発部署は新設された部署で、横井軍平と、彼を支えるために経理部の今西が異動した。
2人で新しい開発部署を任されたあと、その後もヒット作を生み続けたのが横井軍平の凄いところ。
- ウルトラマシン
- ラブテスター
- ウルトラスコープ
- 光線銃SP
などなど、横井軍平が任天堂の開発部署で生み出した玩具は多岐にわたる。
任天堂が傾く
1970年代に入ると、任天堂は社運を賭けた商品を開発していた。
それが「レーザークレー」です。
的が飛んできて銃で撃つクレー射撃を参考にしたもの。
当時はボウリング熱が収まり、ボウリング場の再活用として「レーザークレー」なるものを任天堂は売り出していた。
レーザークレーの開発には横井軍平も深くかかわっていた。しかし、これは失敗に終わる。
1974年
第四次中東戦争の影響で石油価格が高騰(オイルショック)、経済が停滞し始めた。
その影響を受けて、注文を受けていた「レーザークレー」は注文の取消が相次いだのだ。
外部要因にもかかわらず、レーザークレーの失敗に責任を感じていた横井軍平は、再びヒット作を作るべく、玩具づくりへ没頭した。
その後に生まれたヒット商品が、任天堂をゲーム会社へ導くことになる。
1980年
(Wikipediaより)
ゲームウォッチ爆誕!!
当時、サラリーマンの暇つぶし用に開発した「ゲームウォッチ」は大ヒット作となりました。
新幹線でサラリーマンが電卓で遊んでいるの見て、暇つぶし用のゲームはどうだろうか?と考えたの始まり。
これも凄いのですが、横井軍平がある時社長の車を運転していた時に、このアイディアを話しました。
すると、山内社長がシャープの人を連れてきて開発に動き出します。
ゲームウォッチの裏で、1980年に任天堂オブアメリカが設立されて、アメリカでの事業開拓が行われていた。
このアメリカ進出で、任天堂は2つの重要な出来事があった。
- ドンキーコングが誕生
- 宮本茂の才能が開花する
当社アメリカの事業は上手く行かなかった。
事後処理を任されたのが、後にマリオを生み出すことになる宮本茂だった。
当時はポパイのゲームを作る予定だったが、権利の問題でとん挫。その過程で「ドンキーコング」が誕生した。
その後、1983年に任天堂は「ファミリーコンピュータ」を発売して、宮本茂は多くのソフト開発に登用される。(1983年は任天堂が東証一部に上場した年でもある。)
ファミリーコンピュータの誕生で、徐々にゲームウォッチの人気を下火になっていたものの、横井軍平はファミリーコンピュータで、後世に残るデザインを考案していた。
「十字キー」が爆誕
ファミリーコンピュータの裏で、横井はもう一度ヒット作を生み出す
横井軍平は、ファミリーコンピュータが盛り上がっている裏で、再度「遊びとは何か?」を追求していた。
そして、誕生したのが「ゲームボーイ」
(Wikipediaより)
ここでの横井の功績は「ゲームで通信が出来る機能」を搭載したこと。
さらに詳しく
ファミリーコンピュータで、みんながテレビ画面に向かってゲームをする光景に疑問を抱いていた横井は、ゲームボーイでは向かい合ってゲームが楽しめるように通信ポートを付けました。
横井は、オモチャでもゲームでもヒット作を生み出して、後世に残るクリエイターとなったのです。
3D時代を先取りしすぎた大失敗
横井は、55歳で任天堂を去るつもりでいました。そのために、最後に任天堂に置き土産となるヒット作を作りたいと考えていました。
そして考案したのが「バーチャルボーイ」です。
「バーチャルボーイ」は3Dのゲーム機です。
当初は携帯型の3Dゲーム機を想定していましたが、大型のゲーム機となりました。そして、残念ながらヒットすることなく失敗しました。
その後、横井は任天堂を去り、株式会社コトを立ち上げることになります。
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横井軍平流、モノづくりの哲学
技術者というのは自分の技術をひけらかしたいものですから、すごい最先端技術を使うということを夢に描いてしまいます。
それは商品づくりにおいて大きな間違いとなる。
売れない商品、高い商品ができてしまう。
私がいつも言うのは「その技術が枯れるのを待つ」という事です。
技術が普及すると、どんどん値段が下がっていきます。そこが狙い目です。
横井軍平のモノづくりの哲学はこの言葉に集約されていると私は考えています。
この哲学の背景
横井は、理系を卒業したにも関わらず、花札を作っていた地方企業(任天堂)に就職したことに当初は葛藤を抱えて居ました。
理系なのでメーカーで商品開発などをする姿をイメージしていたのだと思います。
「技術を追い求めず、アイディアで勝負する」というのは、玩具づくりで生き残る事を決意した、横井ならではの発想です。
さらに、任天堂は世界的な企業ではありますが、規模で言えばそこまで大きい会社ではありません。
ポイント
そんな任天堂という会社で玩具づくりをした経験からも、技術を追い求めるだけでは生き残れないと痛感していたのだと思います。
枯れた技術の水平思考
安価で手に入るようになった枯れた技術をもとに、アイディアを膨らませてモノづくりをすることを「枯れた技術の水平思考」と呼んでいます。
技術自体が枯れているとかではなく、成熟して十分に低い価格で手に入るという意味です。
安く作らないと売れないというのは、単なるアイディアの不足なんです。
だったら日本国内で作っても高く売れるだけのアイディアを考えたらいいじゃないですか。
それは決して難しいことをしなくても、実に他愛もないことで実現できるのです。
ゲーム機の将来を的確に予測
「枯れた技術の水平思考」という重要な哲学を持っていた横井は、家庭用ゲーム機の将来を完ぺきに予測していた。
「ゲームの進化」に巻き込まれた任天堂
家庭用ゲーム機の市場は、任天堂の独擅場でした。しかし、ソニーがプレイステーションを発売するなど、任天堂は追いやられていきます。
当時の横井は、ゲームが進化している状況に懸念を抱いていました。
「画像が綺麗になったり、操作性が複雑になったり」という面白さの本質的な部分ではないところで競争が始まっていたからです。
任天堂は「新しい遊びを提案する」ところに強みがある企業だと横井は考えていました。
このような横井に危惧は見事に的中します。
NINTENDO64などの後継機は、出荷台数を1億を超える出荷台数を記録したソニーのプレイステーションには到底及ばずに、ゲーム市場で苦戦を強いられてことになりました。
横井さんのモノづくりの哲学で紹介したい事がもう1つあります。
ちょっとだけ実用性を含める
ゲームウォッチを開発している時に、時計の機能を搭載しました。
というのも、ゲームだけだと購入をためらう人もいました。
それでも時計の機能を搭載していれば、当時は珍しかった電子時計として使えるし「まあ、それなら買ってもイイかな」と思わせることに成功しています。
子どもが親に頼むときに「時計代わりにもなるから良いでしょ?」と頼むことも出来ます。
横井さんは、遊びの中に少しの実用性を含ませることを大切にしていました。
この「実用性」というのは、社長の山内さんも同じ考えだった?
任天堂が花札・トランプ製造以外の事業を確立しようと模索している時に、山内社長は「タクシー」「ふりかけ」など、生活に根付いた実用性のある事業へ手を出していました。
ポイント
実用性というのは、モノづくりだけではなく、会社経営でも意識されていることなのかもしれません。
まとめ
- 技術を追い求めず、枯れた技術でアイディアを絞る
- ちょっとだけ実用性を含める
横井さんがもっと広く知られるといいなって個人的には思っています。「枯れた技術の水平思考」は、今の日本だからこそ必要な考え方では?
この記事は、こちらの本を参考にしています。
⇒ 任天堂ノスタルジー 横井軍平とその時代 (角川新書)
ものを考えるときに、世界に一つしかない、世界で初めてというものを作るのが、私の哲学です。
それはどうしてかというと、競合がない、競争がないからです。