私たちは自由が大好きです。
しかし、完ぺきな自由は実現できないのかもしれません。
普段の何気ない生活から、私たちが陥っている自由主義のパラドックスを簡単に解説!
「自由主義のパラドックス」とは?
自由主義のパラドックスとは?
個人が自由に意思決定できること(リベラリズム)と、社会のみんなが納得する意思決定をする(パレートの原理・全員一致の原理)は、両立できないというパラドックス。
自由主義のパラドックスを最初に唱えたのは、1998年にアジア人で最初のノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センです。
(Wikipediaより)
アマルティア・センはインド出身の経済学者で、高度な数学と論理学を使う厚生経済学や社会選択理論における牽引者である。適応選好や潜在能力アプローチ、「人間の安全保障」などの概念は現在日本でも高校の公民の授業で教えられることがある。
パラドックスの例
ポルノ本が1冊あります (『チャタレイ夫人の恋人』というエロ本)。
登場人物は2人。
- ポルノ本は嫌いなAさん (プルードさん)
- ポルノ本が好きなBさん (ルードさん)
読むかは個人の自由ですが、困ったことが1つあります。
困ったこと
Bさんがポルノ本を読むと、笑ったりするので周りの人が不快に思います。さらに、Bさんは、是非Aさんにもポルノ本を読んでほしいと思っていたとします。
Bさん的には、この本の素晴らしさをAさんに伝えたいと考えているようです。
この本を「Aさんが読む」「Bさんが読む」「誰も読まない」と考えた場合、どの選択肢が良いのでしょうか?
社会的には「誰も読まない」>「Aさんが読む」>「Bさんが読む」の順です。
※ Bさんが読むとニタニタ笑って回りが怖がる。それならAさんが読んでいる方がいい
Bさんは「Aさんが読む」>「Bさん(自分)が読む」>「誰も読まない」が良いと思っています。
ココがポイント
社会的にもBさん的にも「Aさんが読む」>「Bさんが読む」となります。
しかし、Aさんは「ポルノ本」なんて読みたくありません。
「誰も読まない」>「Bさんが読む」>「Aさん(自分)が読む」
ココがダメ
Aさん的には「Bさんが読む」>「Aさんが読む」となります。
全部をまとめると
- 「Aさんが読む」>「Bさんが読む」(社会・Bさん)
- 「Bさんが読む」>「Aさんが読む」(Aさん)
と矛盾した選好になってしまうのです。
ちなみに「自由主義のパラドックス」が発生する条件があるので紹介。
3つの条件
① 社会の決定は、みんなの意見を集めたものになる (定義域の非限定性)
② 社会的に1番有益な選択肢を取る (パレートの原理・全会一致制)
③ 個人の好みは自由であり、社会もそれを受け入れる (リベラリズム)
アマルティア・センは、この3つの条件を満たす自由主義は実現できないと指摘しました。
正確には「3条件を同時に満たすことのできる社会的決定関数は存在しない」とセンは著書に記述している。⇒【合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究】
余談
似た話は「アローの不可能性定理」などでも登場しますが、「自由主義のパラドックス」の方が条件が少ないです。
アローの不可能性定理は前提条件が4つの話。自由主義のパラドックスは前提条件が3つある。
「自由主義のパラドックス」の解決方法
自由主義のパラドックスを解決するために、アマルティア・センは②の条件を和らげようと考えました。
3つの条件
① 社会の決定は、みんなの意見を集めたものになる (定義域の非限定性)
② 社会的に1番有益な選択肢を取る (パレートの原理・全会一致制)
③ 個人の好みは自由であり、社会もそれを受け入れる (リベラリズム)
ちなみに、なぜ②の条件を和らげようとしたのかと言うと、②の条件には問題があるからです。
実は、この②の条件の「社会的に1番有益な選択肢を取る」という考えには、こんな前提があります。
パレートの原理
例えば、皆がどっちでもいい内容でも、1人がAの方が良いと言えば、社会的にはAが1番有益な選択肢になる。
しかし、センは「パレートの原理」で「社会的に有益な選択肢」を決定するのはおかしいと考えていました。
その問題点を「パレート伝染病」と彼は呼んでいます。
パレート伝染病
(さきほどのパレートの原理の例では) 1人の好みが社会的な決定権を持っているため、本当の意味で社会的な決定ではない。
パレートの原理で考えると、社会的な決定と言いつつ、たった1人の意見だけが反映されている状態が生まれてしまうのです (パレート伝染病)。
センは、本当の意味で「社会に有益な選択肢」を取るなら「他人の権利を尊重する」ことが重要だと考えました。
先ほどの例
社会的には「誰も読まない」>「Aさんが読む」>「Bさんが読む」の順です。
※ Bさんが読むとニタニタ笑って回りが怖がる。それならAさんが読んでいる方がいい
Bさんは「Aさんが読む」>「Bさん(自分)が読む」>「誰も読まない」が良いと思っています。
しかし、Aさんは「ポルノ本」なんて読みたくありません。
「誰も読まない」>「Bさんが読む」>「Aさん(自分)が読む」
こうなっていましたが、みんなが周りの人の権利や意見を尊重したらこうなります。
社会的には 「誰も読まない」>「Aさんが読む」>「Bさんが読む」
Aさんが嫌がるなら、Aさんは読まないほうが良い。
Bさんが読みたいなら、しょうがない。
Bさんは 「Aさんが読む」>「Bさん(自分)が読む」>「誰も読まない」が良いと思っています。
Aさんが嫌がるなら、Aさんに無理に読んでもらう必要はない。
Aさんは「誰も読まない」>「Bさんが読む」>「Aさん(自分)が読む」
とりあえず自分は読みたくないので、Bさんは自由にどうぞ。
全部をまとめると
「Bさんが読む」>「誰も読まない」>「Aさんが読む」
自由主義は、あくまで他人に危害を加えなければ何をしても自由です (他者危害原則)。
- Aさんに無理やり本を読ませない
- Bさんが本を読んでも周りの人に迷惑をかけない
こうした権利を尊重すれば、Bさんが人前で本を読まないようにルールを決めたりとか、場所を提供するとか、いろいろと案が出ます。Aさんも本も読まずに済みます。
単純な好き嫌いで、社会的に有益な選択肢を考えてもダメ。
「他人の権利を尊重」して考えれば、別の解決方法が見つかるかもしれませんね。