戦後、日本再建を掲げた通信機器の会社が設立された。
後のソニーである。
この会社を率いた技術者は、何を考え、何を思ったのか。
技術者・起業家、全てのビジネスマンが知るべき仕事の哲学。
【井深大】世界のソニーを作り上げた男の人生
井深大(いぶか・まさる)
SONY(ソニー)の設立者。
井深がソニーを率いていた時代に、テープレコーダー・トランジスタラジオ・カラーテレビ・ウォークマンを世に送り出すことに成功した。
盛田昭夫と共に、ソニーを「世界のSONY」へ導いた人物である。
井深大(いぶか・まさる)はソニーの創業者ですが、彼の先を見通す力、未来を作り出そうとする力、人を見る力、すべてが凄かった。
そんな彼の人生・考え方・名言を見ていきます。
1908年4月11日
栃木県日光で生まれる。
子どもの頃から機械いじりが好きだった井深は、中学時代に無線に興味を持った。お小遣いで買った真空管を使って、お手製の受信機(ラジオ)を作って近所の人を驚かせていた。
パリの博覧会で賞を取る
- 早稲田の理工学部へ進学
在学中の井深は、拡声装置や光電話などの研究を行っていた。
中でも、光学(ケルセル)の研究では、大学卒業にパリの博覧会で賞を取るほどの研究結果を残している。(技術者として優秀だったことが分かります。)
就職へ
1933年 大学を卒業した井深は、写真科学研究所へ就職した。
光学(ケルセル)の研究は高く評価されており「君のような人を欲しがっている人がいる」という誘いがあったのだ。
東芝の入社試験に落ちてしまったので、自分を必要としてくれて、自分の力が発揮できる場所なら、ということで入社を決めた。
当時の写真科学研究所は、映画会社の下請けのような会社だった。
井深は、光を音に変換したりする録音技術の開発などに力を入れいていた。先ほどのパリの博覧会で賞を受賞したのは、この会社で研究を進めていた時のこと。
次第に映画の仕事が増えてきたので、技術的な仕事を追い求めて 1937年に日本光音へ転職した。
ちなみに
「写真科学研究所」は東宝映画㈱に繋がります。その後、小林一三が設立した㈱東京宝塚劇場と合併して現在の東宝へと至ります。
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軍事関係の仕事が増える
- 第二次世界大戦中、会社では軍への仕事が最優先された
転職したものの、軍関係の仕事が多くて堅苦しさを感じていた井深は、会社の仲間と新しい会社を設立する。
1940年 日本測定器が設立、この時代に井深は運命の出会いを果たす。
盛田昭夫との出会い
新しい会社でも軍への仕事をしていた井深は、新兵器の研究会で盛田昭夫と出会う。井深は、盛田昭夫と熱線爆弾の研究を進めていた。
(盛田昭夫 Wikipediaより)
盛田昭夫はソニーの設立者の1人。ソニーの創業者というと一般的には盛田昭夫の方が有名で、スティーブ・ジョブズも尊敬していたほどだった。
第二次世界大戦が終わるころ、井深は戦況が良くないという情報を仕入れていたので、日本が戦争に負けるだろうと見越していた。
凄いことに、盛田も同じことを考えており、戦争が終わった後のことについて話し合っていた。
1945年8月15日 敗戦
井深は、敗戦を見越してはいたが、自分の研究が全て無駄に終わったことにショックを受けた。
しかし、戦争が終ってからの動きは早かった。在籍していた日本測定器を清算して、10月に東京通信研究所を設立。
現在、ソニー創業の場所には商業施設であるCOREDO日本橋が建設されている。
(Wikipediaより)
1946年5月
研究所を東京通信工業㈱へ改組した。この会社が現在のソニー(SONY)である。
会社創立の目的
- 真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
- 日本再建、文化向上に対する、技術面・生産面よりの活発なる活動
- 戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活への即時応用
設立趣意書
戦時中、私が在任せる日本測定器株式会社において、私と共に新兵器の試作、製作に、文字通り寝食を忘れて努力した技術者数名を中心に、まじめな、実践の力に富んでいる約20名の人たちが、
終戦により日本測定器が解散すると同時に集まって、東京通信研究所という名称で、通信機器の研究製作を開始した。
これは、技術者たちが技術することに深い喜びを感じ、その社会的使命を自覚して、思い切り働ける安定した職場をこしらえるのが第一の目的であった。
(引用元:Sony Japan https://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/prospectus.html)
世界のSONYへ
- 1950年 日本初のテープレコーダー
- 1955年 日本初のトランジスタラジオ
- 1958年 社名をソニーへ&東証上場
- 1960年 世界初 トランジスタテレビ
- 1963年 世界初 トランジスタ小型テレビ
- 1965年 世界初 家庭用ビデオレコーダー
- 1968年 トリニトロン・カラーテレビ
- 1979年 ウォークマン
井深がソニーを率いていた時代は、まさに黄金期だった。
普通に考えると、ここまで定期的にヒット商品を世に打ち出していくのは至難の業だと思う。それがどうして実現できたのか。それが井深大の凄さかもしれない。
井深の経営哲学・仕事への姿勢
いたずらにつまらぬ競争の渦中に飛び込むよりは、新しい分野を開拓してゆく事こそ、ソニーの進むべき最善にして唯一の道であると、私は確信している。
(「井深大 自由闊達にして愉快なる」より)
井深の経営哲学&仕事への姿勢は実は同じものだと私は考えています。
- 難しいからこそやる意味がある
- 誰もやらないことをやる
- 他の人と同じことはしない
井深大のことを調べると、こういった言葉がたくさん見つかります。
この言葉の真意が分かる話があるので紹介します。
小型ラジオの開発
1950年代にソニーは、トランジスタラジオという小型のラジオの開発に注力していた。
トランジスタラジオの開発は採算が取れずに、アメリカでは敬遠されていた分野で、井深は、そこに目を付けて開発を進めた。
その結果、何とか商品化にこぎつけて、トランジスタラジオはヒット商品になったが、1年半から2年程度で同業他社が追随してきて、すぐに価格競争に巻き込まれてしまった。
この時の話を、井深はこう言っている。
新しいマーケットを開発する努力をせず、他人の築いたマーケットに割り込み、ただ値段を崩すだけしか能がないという典型的日本商法をいやというほど知らされた。
ものの種類であれ、作り方であれ、売り方であれ、新しいものを考案しよう。
真似では勝利は得られない。
仕事への姿勢
井深の仕事に対する考え方も紹介します。
決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れであるということを考えねばならないのを、日本全体が忘れているのではないか。
この井深の言葉ですが、1960年代のものです。
自分で考えて、自分で試行錯誤して、それが井深の仕事に対する姿勢なのではないでしょうか?
何よりも1960年代に、21世紀の今でも言われているようなことを言っていたのは考え物ですね。
未来を見通す力
- 将来を具体的に描くことが出来る
井深の凄いところの1つは、目標を具体的に表現できる力です。
さらに詳しく
カラーテレビの開発のときには「人々が夕飯を食べながら見られるテレビを作ろう」と語り、カラーテレビ開発の目標地点を一言で共有出来ました。
井深はどんな商品を作りたいのか、将来に向けてどうすれば良いのか、そうした抽象的になりやすいものを具体的に考える力があったと思います。
ポイント
大きなことを成し遂げたいなら、将来を具体的に描けることは大切です。
チーム戦でも、個人戦でも、目標までの具体的な工程がイメージできるため、非常に重要なポイントとなります。
目標を具体的に表現できる一方で、未来への洞察力も鋭い人物でした。
私は日本の企業が量で競争するのは、限界に近づいていると思います。
全然新しい分野のものを造り出し、新しいインダストリーを造り出していくという心構えを持たなければなりません。
ハードウェアは、作れば直ぐに値段の競争になって儲けがなかなか少ないのですが、ソフトウェアはわれわれがクリエートしていきさえすれば、高く売ることが出来ます。
ソフトをもって、お客様の食欲をそそることは可能ではないかと思います。
上は1982年、下は1978年に井深が残した言葉です。この時代に、これだけ将来を見通していたことには本当に驚きます
1997年12月19日 井深はこの世を去った。
商売にならないようなものを商売にしていくということが、私どもの進歩というか、ブレイクスルーである。
最後に
せっかく日本にいるなら、やっぱり井深さんを知ってほしい気持ちでいっぱいです。
IT系の企業は全てアメリカの企業ですが、そこを突破していくには、こうした気概とかが必要なんだと思います。
井深さんの哲学が、日本でもっと広まりますように!
ただ与えられたものだけをこなしていくだけでは、21世紀の世の中では通用しないだろうと思います。
時には、型破りで枠からはみ出たことも、勇気と野心と熱意を持って、実際の行動に移していかなければなりません。